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ジョーカー感想 - アーサーにもジョーカーにもなれない悲劇(ネタバレ有)

ジョーカー、見てきました。
映画館で見る予定がなかったので、
がんがんネタバレブログを読んでいたのですが、
時間が取れたので行ってきました。
映画『ジョーカー』オフィシャルサイト

見てわかったこと

  • 絵がすごく綺麗。

どのシーンも、一枚の絵としてすごく美しい。
ピエロの色彩に、洋服に、街。
色味、配置、どれも最高でした。
この絵の美しさを見るためだけに映画館に行く価値あると思う。

  • ジョーカーネタバレ感想ブログの歯切れの悪さの理由

ひと通り有名なジョーカー感想ブログを予め読んでいて、
なんとなくどのブログも歯切れの悪さというか、言い濁すところを感じていたのですが、こういうことか〜と思いました。この詳細については後ほど。

見て思ったこと

  • 「キング・オブ・コメディ」感すごい

キングオブコメディに似てる、という感想は読んでいたのですが、ここまでか、と思ってしまいました。
作中に登場する有名番組、司会者の名前(キングオブコメディではゲリー、ジョーカーではマリー)、有名コメディに出演をする想定で家で立ち振る舞いを練習するアーサー、などなど。
先日キングオブコメディを見たばかりということもあって、既視感が凄かったです。キングオブコメディでは文字通りCrazyな主人公でしたが、ジョーカーでは主人公はCrazyではなかったので、そこは対比になってると思いました。

  • 母親と自分を殺すシーン最高

母ペリーと一緒に住み、介護をし、母の発言を信じていたアーサー。
「母がいなかったらな」と、母に対する愛と憎しみの狭間にいたアーサーが、
「僕の人生は悲劇だったけど、今、僕の人生は喜劇だと分かった」(要約)
と言ってベッドの上の母の首を絞め、殺すシーンまじ胸熱でした。
銃が嫌いで、内心がどうであれ母を大切にしていたアーサーが、
悲しく、苦しいことだらけだった彼の人生を喜劇に変えようとする姿が見れて、観客として嬉しい、よかった、と思いました。

  • 演出がわかりやすい

アーサーが精神的・肉親的にダメージを受けている時、
ずーん、ずーんとした低音がなり(マイナーな音)、
Crazyになりそうになると、くるくるとした高音が鳴ります。
あと、彼が悲劇の中にいる時は、彼の中に音楽が流れず、
あくまで妄想のシーンの中でのみ音楽が流れるのですが、
彼が喜劇の中にいる時は、彼の中に音楽が流れているのが印象的でした。
あと、悲劇・喜劇でいうと、彼が悲劇にいる時は絵の色味が暗いトーンで、光がないのですが、彼が喜劇にいる時は、彼の世界に光がさします。
演出がわかりやすいのは良かったですし、これによって彼が喜劇になったシーンをより「良かったなあ……」とおもったのだと思います。

  • 開放感よき

映画後半までずっと苦しい立ち位置だったアーサー。
脳の障害・母の介護・クビになる仕事・コメディアンとして話がつまらないからTV出演の声がかかったりと、いろんな苦労が重なっていき、最終的には笑われる立場であったアーサーが、有名番組にジョーカーとして出演し、番組司会者を放送時間中に撃ち殺したシーンは、「よくやった、アーサー」という気持ちになり、すかっとした気持ちになりました。

  • アーサーにもジョーカーにもなれなかった男

自分のことをこけにしていた人間・自分を悲劇たらしめていた人間・「普通」の尺度でしか物をはかれず、自分にレッテルを貼っていく人間を殺害したアーサー。
そして、ジョーカーとして有名番組に出演し、生放送中に司会者を殺すことで一躍アンチ富裕層(低所得者たち)のスターになるジョーカー。

この映画は、すごく悲しい映画だと思いました。
なぜなら、彼は「アーサー」にも「ジョーカー」にもなれなかったから。
「アーサー」は、自身の出生の秘密を確かめ、母を殺害。「アーサー」を捨て、悲劇のヒーロー「アーサー」から喜劇のヒーローの「ジョーカー」への変身を望む。

しかし、喜劇のヒーローのはずの「ジョーカー」は、富裕層VS低所得層対立の低所得者側のシンボルでしかない。
警官に捕まったジョーカーは低所得者陣営から連れ出され、リーダーとして担ぎ上げられるも、それは「ジョーカー」に対して持ち上げているのではなく、低所得者のシンボルとして持ち上げられている。
彼が必死になってなりたかった「ジョーカー」は、人々の間に存在していない。人々は低所得者のシンボルであれば、「ジョーカー」であるかどうかはどうでもいいのだ。

彼が度々主治医に語っていた「自分が存在しているのかどうかわからない」という疑念は、「ジョーカー」になろうとしていることにより、より深まったのではないかと感じる。これが、どうにも悲しい。

  • 夢オチではない

アーサーが彼女だと思っていた女性は、
実はアーサーの妄想であった、というシーンや
アーサーが有名番組に出演している妄想シーンがはさまれ、どこまでが真実で、どこからが妄想(虚構)なのかがわかりにくいように作られている映画だった。

これはキングオブコメディと同じなのだが、
このジョーカーの結末においても観客に「結末をどう受け取るか」が任せられている。
TV司会者を殺害し、捕まったジョーカーが輸送中に警察車から出され、人々の喝采を浴びたのち、それらのシーンを手錠をしたアーサーが白い部屋で主治医に語っているシーンが映る。そして、アーサーは嬉々として踊りながら廊下を歩き、「The End」とスクリーンに映し出される。

今まで全ての物語は「アーサー」による夢物語(夢オチ)として解釈できるが、自分としてはこれは夢物語(夢オチ)ではない、と解釈した。
アーサーの見た目的な点で言えば、白い部屋でアーサーは手錠をつけており、指先にはいくつか傷が見受けられる。この点から全ての出来事が実際に起こったあとのように感じる。
また、自分が一番妄想ではない、と感じた部分は、主治医との会話の後、廊下を歩くシーンで、窓から煌々と光がさしこみ、なおかつ彼に音楽が流れていたからである。
この映画では前述したように、彼が喜劇にいる時に光はさし、音楽が流れている。もし、司会者も殺さず、「ジョーカー」になっていない彼はきっと悲劇の中にいるはずなので、このような演出になっていないと思うのだ。

彼の喜劇エピソードの1つが「ジョーカーになる」ことであり、この映画はそれを描き、そのエピソードが終わるため、「The End」と表示されたのだと思っている。
(彼が喜劇にいてほしいため、全ての話が本当であったと思いたい気持ちもある)

ジョーカーの感想まとめ

  • 自分がジョーカーに求めていたもの

今回この映画を見てみて、自分が「ジョーカー」に求めているものは描かれなかった、と思っている。
自分は「ジョーカー」(悪の存在)が、こういう生活の貧窮などにより追い詰められた結果登場するものではなく、最初から「悪」でいてほしいのだと思った。
これは、「アーサー」が完全に普通の人間であり、
環境や状況が「アーサー」を変えようとしたものだと思うからだ。
そりゃあ電車で複数人に理不尽に殴られたら、身の危険を感じるだろうし、同僚に裏切られたら腹がたつ。そういう人間を恨み、殺したくなるのは(正当防衛も含め)、「普通」ではないかと感じてしまう。

この「ジョーカー」は現実的すぎるため、そういう意味で感情移入できるのだが、それよりは最初からぶっとんだ狂人でいてほしかった。
あたまのおかしい敵でいてほしかった。

  • Crazy

この映画のキーワードは「存在」と「Crazy」ではないかと思う。
この2つはアーサーがよく口にしていた。
そして、どちらも他者ではなく自分で決めるものだ、とアーサーは終わりの方で語っていたはず(うろ覚え……)。
日常に辟易していた「アーサー」はCrazyになりたかったのだろうと思っている。
彼がCrazyと口にするシーンは、なにかしら彼のきっかけになるシーンであることが多かったように思う。
だが、映画を結末まで観ると、彼は「Crazy」にはなれなかったと思う。

そもそもの発端が生活の困窮・現在からの脱脚であり、
その発想(そして過程)そのものが「普通」であると感じるからだ。
もちろん、彼の障害?は一般的に無視をされたりするものであり、「コメディアン」に憧れる部分も、「普通」であろうとする人間からは除外される対象である。

彼は「普通」のレッテルを貼り付けてくる人間を嫌がっていたが、結局彼自身も振り切れず「Crazy」になれなかった人間なのではないかと思う。だからこそ、この「Crazy」という言葉に憧憬を抱きながら発音していたのではないかと感じた。

  • 全体を通して

絵も綺麗。ストーリーも虚実入り混じっていて良い。
だけれども悲惨さがずっと付きまとってくる。
この映画「ジョーカー」を、胸をはっておすすめ!とは言いがたいが、一度は見てほしいと思う。